高松高等裁判所 昭和53年(ネ)75号 判決 1983年3月22日
控訴人
福崎恭子
右法定代理人父兼控訴人
福崎仙三
右同母兼控訴人
福崎美智子
右三名訴訟代理人
片山邦宏
被控訴人
坂出市
右代表者市長
番正辰雄
右訴訟代理人
徳田恒光
饗庭忠男
主文
一 原判決を次のとおり変更する。
1 被控訴人は、控訴人福崎恭子に対し金七七〇万円及び内金七〇〇万円に対する昭和四九年三月二日から完済まで年五分の割合による金員を、控訴人福崎仙三、同福崎美智子に対し各金一一〇万円及びその各内金一〇〇万円に対する昭和四九年三月二日から完済まで年五分の割合による金員をそれぞれ支払え。
2 控訴人らのその余の各請求を棄却する。
二 訴訟費用は、第一、二審を通じてこれを五分し、その四を控訴人らの各自負担とし、その余を被控訴人の負担とする。
事実
第一 申立
(控訴人ら)
1 原判決を取消す。
2 被控訴人は、控訴人福崎恭子に対し金三八五〇万円、同福崎仙三、同福崎美智子に対し各金三三〇万円及びこれらの金員に対する昭和四六年二月二三日から完済に至るまで年五分の割合による金員を支払え。
3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
4 仮執行の宣言。
(被控訴人)
1 本件控訴を棄却する。
2 控訴費用は控訴人らの負担とする。
第二 主張<以下、省略>
理由
一控訴人仙三、同美智子の三女である控訴人恭子は、昭和四五年一〇月二七日午前九時四五分、丸亀市内の三木産婦人科で出生したが、出生予定日より約七〇日早く生まれた生下時体重一二五〇グラムの未熟児であつたため、即日被控訴人の経営する坂出市立病院(病院長岡説也)の未熟児センターに入院し、小児科医の飛梅担当のもとに同年一二月八日まで保育器に収容され、入院当初から同年一一月九日までの一三日間、酸素の投与を受け同年一二月二五日退院したこと、退院当日恭子は右病院の青野の眼底検査を受けたが、そのとき青野が控訴人らに恭子の瞳孔が十分開かず確実な診断はできないといつたこと、翌四六年二月二三日控訴人恭子が香川労災病院で青野の診断を受け、同医師より恭子は本症により両眼とも失明している、前年一二月二五日の検査時にこのことは判つていたが事実を告げなかつたといわれたこと、恭子が本症により両眼とも失明していることは当事者間に争いがない。
原判決の事実摘示には、控訴人らは控訴人恭子が昭和四五年一二月二五日坂出市立病院を退院した当日青野の眼底検査を受けたとき、恭子は既に本症により両眼とも失明していたと主張し、被控訴人はこれを認めるとなつているが、控訴人らの訴状、準備書面、被控訴人の答弁書、控訴人らの当審での主張によると、控訴人らの主張は、恭子は昭和四六年二月二三日香川労災病院で青野の眼底検査を受けたとき、同人より、恭子は本症で両眼とも完全に失明している、その前年一二月二五日青野が恭子の眼底検査をしたとき、既に恭子が本症で失明していたことが判つていたが、もう手の施しようがなかつたのでその事実を伝えなかつたといわれたというのであり、これに対する被控訴人の答弁は、昭和四六年二月二三日青野が香川労災病院で恭子の眼底検査をしたとき、控訴人らに、恭子が本症で既に失明している、前年一二月二五日青野が恭子の眼底検査をしたとき、恭子が既に失明していることは判つていたがその事実を告げなかつた、当時控訴人らに恭子の瞳孔が十分開かないので確実な診断ができないといつたことは認めるが、他は争うというのであり、また控訴人らは当審に至り、昭和四五年一二月二五日当日青野は恭子の眼底を正確に検査しなかつたのであるといい、被控訴人はこれを否認しているので、控訴人らが昭和四五年一二月二五日に恭子が本症で失明していたというのは青野がそう説明したというに止まり、それが事実かどうかは証拠で認定すべきことであるといわねばならない。
二本件に対する原判決の理由二(本症について)、三(坂出市立病院と同病院の医療体制等)、五(医師の判断基準)は、原審で提出された証拠に当審で追加された証拠を参酌して行つた当裁判所の事実認定、判断と同一であるから、この部分についての原判決二六枚目裏の九行目冒頭から同五五枚目表一〇行目の終りまで、同六〇枚目表三行目から六一枚目表六行目の終りまでを次のとおり訂正して引用し後の説明を付加する。
(一) 原判決二六枚目裏一一行目の「二九」の次に「(但しこれは成立のみが争いがない)」と加え、同二七枚目表二行目の「一と二」の次に「、一六九号証」を加え、同三一枚目一〇行目冒頭から三二枚目表四行目末尾までを削除し、同三三枚目表九行目の「ない限り効果はない。」とあるものを「るのがよい。」と訂正し、同四一枚目裏七行目の「高知県」の次に「、香川県」を加え、同枚目裏九行目の「被告病院の」から一一行目の「それかあらぬか、」までを削り、同枚目末行の「一番」とあるところを「比較的」と改め、四二枚目表一〇行目一一行目の「最も」も削る。
(二) 追加された証拠を参酌し、本症の発生機序、治療法の光凝固法、厚生省が発表した診断基準等について次の説明を付加する。
1 本症の発生機序について
<証拠>によると、本症の真の発症原因機序は、今なお解明されていない部分があるが、慶応大学教授植村恭夫、福岡大学教授大島健司、徳島大学講師布村元によると、次のとおりと認められる。
人間の眼球の水晶体の後には、黄斑部を中心として黄色く塗られた網膜があり、これに外からの光が映り、視神経を経て脳に伝わりものが見えるということになるが、視神経の出口に当る乳頭から網膜上に栄養を運び老廃物を運ぶ役を果す多くの血管が発達している。この血管は胎児に一斉に出来るのでなく、妊娠四か月ころから出来はじめ、乳頭から周辺に向つて進み妊娠八ないし一〇か月で全部が端まで届くのであるが、未熟児は在胎週数が少ないため網膜の血管が端まで届いていない途中の段階で母体外に出る。母体の中ではこの血管は余り活動せずにすみ、栄養の消費量も少ないが、母体を離れ独立して諸器官の活動が始まると網膜の血管も栄養の補給、老廃物の運搬が活発になるため、血管のない部分と血管のある部分の境の網膜の血管が異常に増殖し硝子体内に上つてくるが、未熟児に酸素を与えると一層この増殖が起る。この増殖は酸素の感受性の強い体重二〇〇〇グラム以下の体重児に多い。本症のⅡ型のものはⅠ型のものより未熟性が高いためこの増殖が全面的に起る。この増殖した血管をそのままにしておくと網膜剥離を起し失明をもたらすので、光又は冷凍の凝固法によつてこの増殖した血管の末端をつぶして防ぐことが行われる。
ただこの血管増殖が起る理由については酸素によつて血管が収縮し閉塞するためだというが、未だ解明されていない部分もあり、酸素投与は原因というより引き金にすぎないという見方もある。本症は胎児が母体内にいるときの酸素濃度と出生後の酸素濃度に差が大きい、すなわち母親が貧血とか妊娠中毒症のため血中酸素濃度が低いと出生児に本症が起こり易いとみられている。
2 光凝固法について
<証拠>を総合すると、次のとおり認められる。
(1) 光凝固法はもともと成人の網膜剥離、特に糖尿病性の網膜剥離治療のためドイツのマイヤーシュベッケラート教授が開発したもので、昭和三七年ころから日本でも用いられ始め、レンズで光源を集中させた熱で網膜血管を焼灼し、網膜血管の閉塞によつて起こつた異常な血管増殖を促す因子を破壊し網膜血管の正常な発育を促すものであり、冷凍凝固法は逆に冷凍によつて同じ目的を果すもので冷凍の場合は対象場所が広くなるといわれている。網膜血管の破壊という点では成人の場合も未熟児の場合も同じであり、成人の場合は既に出来上つている網膜血管に病変が起こり、不足する酸素を補うため新たな増殖が起こるのを対象とするが、未熟児の場合は発達途上の血管を対象とするという違いがあるので、それが将来どんな差となるか今のところ必ずしも明らかでない。
(2) 天理病院医師の永田は昭和四二年三月初めて本症治療に光凝固法を用い、学会で報告し同四三年これを発表したが、この時点でまだ治験例が少なく、光凝固法が有効だと断言できる段階でなかつた。しかしその後更に治験例を重ね同四五年五月に四例の成功例を追加報告し、適当な時期に光凝固法を行えば治療できるといい、同年一一月号の「臨床眼科」で、本症治療のネットワークを作れば本邦から本症の失明例を根絶することも夢ではない、必要なことは眼科医、小児科医の熱意であり、行動力であると思われると述べその後も治験例を重ねた。
永田は昭和五一年一二月三〇日発行の「産婦人科シリーズ未熟児網膜症のすべて」(甲第一七二号証)において「同人の勤務する天理病院が昭和四一年四月から同五〇年末までに管理した未熟児数は四一一例であること、そのうちⅠ型1期以上の本症発症者は六〇例で全体の14.6パーセントでⅠ型1期が二五例、同2期が二二例、同3期が九例、混合型が四例で3期以上に進んだのは出生時体重が一五〇〇グラム以下のものであつたこと、Ⅰ型3期の一例が自然治癒し残りの八例と混合型全員(四例)に3期の中期に光凝固を施したところ、混合型のうちの二例が軽度ないし中等度の近視を残したが、他は全部正常な視機能を示していること、Ⅰ型は大多数が自然治癒するので光凝固を行うには確固たる根拠が要ること、3期に入つて硝子体内へ発芽がみられるようになつても、後極部網膜動脈の蛇行や静脈の拡張が全くみられない場合は急速に進行する心配がないので、週一回の眼底検査をしながら経過をみてよいこと、硝子体への血管増殖が日を追つて盛んとなり、後極部血管の拡張がみられ、硝子体内への出血が出現するような場合は光凝固を行つてもよいが、硝子体出血のない場合、片眼凝固を行つて他眼の自然経過を観察するのはよい方法である。硝子体への増殖過程が強い場合、3期の晩期になると網膜血管の耳側への牽引が始まり、この時点で光凝固を行うと治癒しても2度以上の瘢痕を残すことがあるので手術時期を適確に決めねばならないこと、混合型も3期の初期までに治癒すれば弱視を残さず、これを自然治癒に任すと2度以上の瘢痕を残すので視力保全上光凝固法を施した方がよいこと、Ⅱ型は治療しないと絶対に失明する重症例であり、これは光凝固を施しても全例治癒するとは限らないこと、光凝固法は本症の予防対策が完成されるまでの過渡的なもので万能ではないが、患児の失明ないし弱視抑制のためこれを治療手段とせざるを得ず、黄斑部のような誤つた部位にこの手術が行われると当然視力障害が大きいが、慎重に行えばⅠ型については成長後もほとんど悪影響のないことが遠隔成績で明らかであり、Ⅱ型では周辺部網膜機能が犯されるのは当然であるが、残存部の網膜にはその後も変性所見はみられない」と述べ、同年一一月一〇日の日眼会誌八〇巻一一号(乙一四〇号証)においては「昭和四一年四月から同五〇年末までの間に天理病院が他から紹介を受けて治療した九一例のうち一六例は自然治癒し、Ⅰ型のもの五三例、混合型のもの一七例、Ⅱ型のもの五例の合計七五例に光凝固法を施行した。そのうち四八例(六四パーセント)が1度で完全治癒し二七例(三六パーセント)に2度以上の瘢痕を残した。この二七例のうち九例は3度以上の重症でその四例は失明した。この四例の内訳はⅠ型と混合型が各一例でⅡ型が二例あり、Ⅰ型でも失明例があるが当初から天理病院で保育管理したものに失明例がないのと違うこと、最初から天理病院で保育したものと他から紹介された患者で光凝固法を施行したものの合計八七例について一年以上を経過し遠隔成績のとれたものをみると、Ⅰ型3期までに手術したもの四七例八七眼のうち八二眼(94.3パーセント)は問題がなく、五眼(5.7パーセント)に2度の瘢痕が残り低い屈折異常、斜視があつたこと、Ⅰ型3期以後に手術した一四例二五眼では近視、乱視等機能的予後が不良なものがあること、混合型二一例四一眼でも3期の初期以前に手術したものの予後がよく3期の中期以後に手術したものには近視性乱視の発現率が高いこと、Ⅱ型網膜症五例一〇眼のうち二例四眼が失明したが、三例六眼は比較的早期に手術したため眼振、斜視もなく治癒し、Ⅰ型混合型でおそく手術したものより結果がよかつたこと、自然治癒の高いⅠ型でもそれを知つて手術するが、その結果は自然治癒に任せて残る瘢痕より結果がよいのではないかと思つている」と述べた。
ただし永田は週刊日本医事新報の昭和五六年七月四日号(乙第一九九号証)においては「酸素の過剰投与は本症の増悪原因となるが、経皮的モニタリングで血中酸素濃度を安全といわれる値に保持しても本症の発生を完全に抑止できないから酸素は直接の原因ではない。生下時体重一五〇〇グラム以下の未熟児では酸素管理をいかに厳密にしても活動期病変は必ずある比率で発生し、厳密に眼底検査を行えばその五〇ないし七〇パーセントに何らかの活動期病変を発見できる。この率は全身管理の方法で多少の多寡はあるがその本質が網膜の未熟性に起因するものである限りその発生を零にすることは不可能である。但しこのうち治療せねばならぬ程度に進行するのはその半数以下である。理想的な全身管理が行われれば極小未熟児においても、無治療で失明例はほとんどなくなると思われるが、治療なしではある数の弱視児は必ず発生しているはずである。現在行われている眼科的治療は失明はもとより、この弱視発生の防止を目標としている。本症の発生は昭和四九年ころから著しく減少しているといわれ発生予防の改善がみられるが、最近の本症による盲児はほとんどが光凝固法治療にもかかわらず失明しており、しかも視力障害以外の重複障害を高率に伴つていることは、Ⅱ型網膜症の治療に限界があることを示し、全国で年間五〇人程度の重度視覚障害児の発生が今後も予想される。パッツはアメリカでは今でも年間二〇〇人程度の視覚障害児が発生していると予想している。酸素投与がなくても本症の発生があるのである程度の発症はさけがたい」と述べ、永田が昭和五六年一二月四日から六日にかけアメリカオハイオ州で行つた報告(乙第二〇四号証)では「天理病院で出生以来管理してきた未熟児のうちⅡ型の本症は一例で、この症例では片一方が失明しもう一方は2度の瘢痕性病変で食いとめた。Ⅰ型Ⅱ型のほか混合型も経験したが、これらの場合、担当眼科医が正確に診断し早期治療の指示を下す能力がなければ肝心な時期を逃す」と述べた。
(3) 永田が先鞭をつけた本症に光凝固法を用いることはその後欧米にも紹介され、マイヤーシュベケラートらが本症の幾例かに光凝固法を施したが、一般には未熟児に対する酸素投与の抑制で本症の発生を未然に防げという声が強く、光凝固法に高い評価を与えている現状ではないようであるが、これが不適だという積極的発言も余りみられない。
(4) 徳島大学医学部では昭和四二年日本で第二番目に光凝固法の器械を購入し成人の網膜症治療に当り、同大学講師の布村元は昭和四二年、臨床眼科学会で永田の本症に対する光凝固法適用の講演をきき、同四五年徳島日赤の遠藤医師から送られてきた未熟児に光凝固法を用い、その後もその療法を行つた。ただし同大学教授の三井幸彦は光凝固法による治療は眼底を焼灼するのだから一〇年二〇年先の副作用はどうなるか判らぬといつて、楽観的でなく懐疑的であること、昭和五五年東北大学教授赤石英は光凝固法で治癒したとされているものも、元来放置しても自然治癒した蓋然性が高く、光凝固法が本症に対する有効な治療法ではない、同法の治療効果は一般に信じられているものよりかなり低いといい、この外にも、永田らが光凝固を適用したものはⅠ型が大部分で放置しておいても自然治癒したものでないかと指摘するものがある。
(5) Ⅰ型に光凝固をした方がよいかどうかを験するため名古屋市大の馬嶋昭生らは昭和四八年六月以降3期の中期に入つてなお進行を止めぬ二五の症例を選び、片眼の凝固を行つて観察し昭和五一年一月臨症眼科にその結果を発表したが、これによると、このうち一二例のみは網膜症進行に左右差を認めず、その一二例中の二例は他がなお進行の傾向を示したので、結局両眼とも光凝固したが両眼とも牽引乳頭を起こさず進行が止まつた。他の一〇例は非凝固眼との差異を認めなかつたので、結論としてⅠ型の2期では未だ凝固を施すべきでなく経過をみるべきものであるといつている。
(6) 福岡大学の大島健司がいうごとく、厚生省の診断基準発表後今日まで光凝固法の研究者間の問題としては混合型又はⅡ型をいかに救済するか凝固を行うことで失明を食いとめられるのかどうか、Ⅰ型は自然治癒の傾向が強いから少しくらいの障害が残つても凝固法を施さずに放置した方がよいのでないか、それとも永田がいうようにⅠ型でも凝固を行つた方が視機能保全によいというのかということにあり、研究者の関心は混合型又はⅡ型に最適な方法はないかを探究することにあるといえる。
(7) 以上の説明と当裁判所の引用する原判決の理由のごとく、本症に光凝固を行う治療法は永い実験とか追試を経て確実性が証明されて後実施に移されたものでないのと永田がこれを用い出してからでもまだ十五年余しか経過せず、その治療を受けた児が成長して後どういう結果を示すか今は断定できないこと、重症のⅡ型については本症施用の時機選択が難しく、この方法をとつても全部を失明から救える段階に至つていないこと、Ⅰ型は自然治癒率が高いので永田のようにⅠ型についても凝固を行つた方がよいことかどうか賛否両論その他種々の議論があり、永田自らこの方法は本症治療の必要性が先行して生んだ手段で他によい方法が現れればそれ程よいことはないといつているくらいであるから万全な方法ではないが、他によい方法がない今日、永田をはじめ光凝固を行つたものの多数はその結果を是認しているので、現段階では未熟児の本症のⅠ型と混合型では3期初めの適期を選びⅡ型でもその適期を選んで凝固法を施行するのが最善の方法と評価でき、これに反する被控訴人の主張は採用しがたい。本症の根本原因は患児の未熟性であり、特にⅡ型のような重症は発症が急激でその発見が難しい等諸種の要因があつて本症のすべてを治癒させることができるとはいえないが、それだからといつて凝固法の有効性を否定することはできない。
3 厚生省発表の診断基準と治療基準
<証拠>によると、昭和四九年厚生省は本症についての眼底検査方法の進歩、光、冷凍の凝固法の登場、本症のうち従来の分類にあてはまらない経過をたどり剥離に至る型の存在が明らかになつたので、昭和四九年、当時における研究成果を整理し、意見の統一できる部分と岐れた部分を明らかにし、その適応、限界を定めるためこの方面の権威者である植村恭夫を主任研究者に、塚原勇、永田誠ら一一名を分担研究者に任じて研究班を作り、本症の診断基準と治療法の統一的見解をもとめることを委嘱し同五〇年三月その成果を次のとおり発表したことが認められる。当裁判所の引用する原判決の「本症の病態と臨床的分類」と重複する部分も多いが、一層明確となり治療方法も加わつているので掲げる。
(1) 活動期の診断基準と臨床経過の分類
両眼立体像鏡又はポンノスコープを用い散瞳下に検査する。
本症を予後の点よりⅠ型とⅡ型に大別する。
Ⅰ型は主として耳側周辺に、増殖性変化を起し、検眼鏡的に血管新生、境界線形成、硝子体内の滲出、増殖性変化を示し、牽引性剥離と段階的に進行する比較的緩徐な経過をとるものであり、自然治癒傾向の強い型である。
Ⅱ型は主として極小低出生体重児にみられ、未熟性の強い眼に発症し、血管新生が後極よりに耳側のみならず鼻側にも出現し、それより周辺側の無血管帯が広いものであるが、ヘイジイメディア(硝子体混濁)のためにこの無血管帯が不明瞭なことも多い。後極部の血管の迂曲、怒張も初期よりみられる。Ⅰ型と異なり、段階的な進行経過をとることが少なく、強い滲出傾向を伴ない比較的速い経過で網膜剥離を起こすことが多く、自然治癒傾向の少ない予後不良の型である。
(A) Ⅰ型の臨床経過分類
1期 血管新生期
周辺ことに耳側周辺部に血管新生が出現し、それより周辺部は無血管帯領域で蒼白にみえる。後極部には変化がないが軽度の血管の迂曲、怒張を認める。
2期 境界線形成期
周辺ことに耳側周辺部に血管新生領域とそれにより周辺の無血管帯領域の境界部に境界線が明瞭に認められる。後極部には血管の迂曲、怒張を認める。
3 期硝子帯内滲出と増殖期
硝子体内滲出と血管及びその支持組織の増殖が検眼鏡的に認められる時期であり、後極部にも血管の迂曲、怒張を認める。硝子体出血を認めることもある。
4期 網膜剥離期
明らかな牽引性網膜剥離の認められるものを網膜剥離期とし、耳側の限局性剥離から全周剥離まで、範囲にかかわらず明らかな牽引剥離はこの期に含まれる。
(B) Ⅱ型
極小未熟児の未熟性の強い眼に起こり、初発症状は血管新生が後極より起こり、耳側のみならず、鼻側にもみられることがあり、無血管領域は広くその領域はヘイジイメディアでかくされていることが多い。後極部の血管の迂曲、怒張も著明となり、滲出性変化も強く起こり、Ⅰ型の如き段階的経過をとることも少なく比較的急速に網膜剥離にと進む。
(C) 混合型、Ⅰ型Ⅱ型の混合したもの
自然緩解はⅠ型の2期までで停止した場合には、視力に影響を及ぼすような不可逆性変化を残すことはない。3期においても自然緩解は起こり、牽引乳頭に至らずに治癒するものがあるが牽引乳頭、襞形成を残し弱視となるもの、頻度は少ないが剥離を起こし失明に至るものがある。
(2) 瘢痕期の診断基準と程度分類
本症の瘢痕病変は検眼鏡的にも病理学的にも特殊性を欠き、活動期よりの経過をみていない場合は鑑別すべき多くの眼疾があり、本症による瘢痕と確定診断を下すことは甚だ困難である。したがつて自ら活動期の経過を観察していたものか、他の医師がそれを診ていたことが明らかな症例は本症の瘢痕であると診断しうるが、右と異なりはじめて外来で訪れたような患者の症例についてはその「疑い」の域に止まらざるを得ない。その分類基準は次のとおり。
1度
眼底後極部には著変がなく、周辺部に軽度の瘢痕性変化(色素沈着、網脈絡膜萎縮など)がみられるもので、視力は正常なものが大部分である。
2度
牽引乳頭を示すもので、網膜血管の耳側への牽引、黄斑部外方偏位、色素沈着、周辺部の不透明な白色組織塊などの所見を示す。黄斑部が健全な場合は視力良好であるが、黄斑部に病変が及んでいる場合は種々の視力障害を示す。しかし日常生活に視覚の利用は可能である。
3度
網膜襞形成を示すもので鎌状剥離に類似し、隆起した網膜と器質化した硝子体膜が癒合し、これに血管がとり囲まれ、襞を形成して周辺に向つて走り、周辺部の白色組織塊につながる。視力は0.1以下で弱視又は盲教育の対象となる。
4度
水晶体後部に白色の組織塊として瞳孔領よりみられるもので、視力障害は最も高く盲教育の対象となる。
(3) 治療基準
本症の治療には未解決の問題が多く現段階で決定的な治療基準を示すことは困難であるが、進行性の本症活動期病変が適切な時期に行われた光あるいは冷凍凝固法によつて治癒しうることが多くの研究者の経験から認められているので臨床経過の分類基準に基づき一応の治療基準を示す。
(A) 治療の適応
Ⅰ型は臨床経過が比較的緩徐で進行状態を追跡する余裕があるので、自然治癒傾向を示さない重症例のみに治療を施すとともに不要な症例に行き過ぎた治療を施すべきでない。
Ⅱ型は患者が極小低出生体重児で網膜症が異常な速度で進行するため、治療の適期判定や治療の施行そのものに困難を伴うが、失明防止のため治療時期を失わぬよう適切迅速な対策が望まれる。
(B) 治療時期
Ⅰ型の2期までは治療を要せず、3期で更に進行の徴候がみられるときに治療が問題となる。
Ⅱ型は血管新生期から突然網膜剥離が起こることが多いので、Ⅰ型のように進行段階を確認しようとすると治療時期を失う虞があり、治療の決断を早期に下さねばならない。この型は極小低出生体重児の未熱性の強い眼に起こるので、綿密な眼底検査を可及的早期より行うことが望ましい。無血管領域が広く全周に及ぶ症例で血管新生と滲出性変化が起こり始め、後極部血管の迂曲、怒張が増強する徴候が見えた場合は直ちに治療を行うべきである。
(C) 治療方法
光凝固はⅠ型では無血管帯と血管帯との境界領域を重点的に凝固し、後極部付近は凝固すべきではない。無血管領域の広い場合には境界領域を凝固し、更にこれより周辺側の無血管領域に散発的に凝固を加えることがある。Ⅱ型においては無血管帯領域にも広く散発凝固を加えるが、この際後極部の保全に十分な注意が必要である。冷凍凝固も凝固部位は光凝固に準ずるが、一個当りの凝固面積が大きいことを考慮して行う。冷凍凝固に際しては倒像検眼鏡で氷斑の発生状況を確認しつつ行う必要がある。
初回の治療後、症状の軽快が見られない場合には治療を繰返すこともありうる。また全身状態によつては数回に分割して治療せざるを得ないこともありうる。
上記の治療基準は現時点における研究班員の平均的治療方法であるが、これらの治療方針が真に妥当なものか否かについては更に今後の研究を俟つて検討する必要がある。
Ⅰ型における治療は自然瘢痕による弱視発生の予防に重点がおかれているが、これは今後光凝固治癒例の視力予後や自然治癒例にみられる網膜剥離のごとき晩期合併症に関する長期観察結果が判明するまでは適応に問題が残つている。Ⅱ型においては放置した際の失明防止のために早期治療を要することに疑義はないが、治療適期の判定、治療方法、治療を行うときの全身管理などについてなお今後の検討の余地が残されている。
混合型においては治療の適応、時期、方法をⅡ型に準じて行うことが多い。
発症初期から経過観察をすることができなかつた症例で、一部に瘢痕性病変が始まり、一部に活動性病変が残存している場合の治療については研究班員において意見の一致をみるに至つておらず、なお今後の検討を要する。
副腎皮質ホルモンの効果については、全身的な面に及ぼす影響をも含めて否定的な意見が大多数である。
以上のとおりであり、厚生省は更に昭和五二年本症のⅡ型の治療について研究者に研究を依頼したが、今日までその結果の公式発表はなく、また今日まで右の診断基準の改訂発表はない。
4 まとめ
本症はときには酸素投与の全然ない児にも発症があるといわれているが、一般には在胎週数が少なく出生時の体重が少ない未熟児の生命維持と脳障害の発生を防止するため投与された酸素のため、未熟児の眼の水晶体の後部に増殖した血管が網膜剥離の原因となり発症するものであるから、未熟児の養育に当るものは未熟児に適当な酸素を投与し、生命の維持と脳障害の発生を防止するとともに本症の発症をも防止せねばならぬ極めて難しい仕事を全うせねばならぬ立場にあるといえる。したがつてこの任に当る医師は未熟児の出生直後の酸素投与が始まつたときから未熟児の眼底検査を行い、本症発症の危険があつたら細心に酸素投与を加減するのがよいのであるが、出生早々では未熟児の開眼すら容易でなく、抵抗力の少ない未熟児には雑菌からの感染防止の要請もあるので、生後三週間くらいまでは眼底検査はできないが、それが可能となる約三週間経過後は酸素投与を行つた場合はもちろん、その投与をしなかつた場合でも本症発生の心配がなくなる未熟児保育の状況を脱するまで毎週眼底検査を行い、もし本症の発生又はその徴候を発見したら、それが前記厚生省発表の基準にあるⅠ型又は混合型なら自然治癒するかどうかを見極めるため頻回に眼底検査を行い、それが3期に入り自然治癒の見込なしと判断したときに直ちに光又は冷凍の凝固法を施し血管増殖を抑制するのがよく、また本症のⅡ型は一般状態のよくない極小未熟児に急激に発症するのが多いので、その発見と手術が一層難しく、かつ凝固法を施す場所が広く瘢痕が多く残り、視機能が完全にならない率が高いし、医師の懸命の治療にもかかわらずある程度の失明者の出ることは免れず、その原因は児の未熟性に求めるほかなく、その完壁な治療方法は未だ開発されておらず今なお医療の課題として残つているといえる。
但し以上の知見は昭和四七年ころ以降、永田の治験例発表とこれに賛同して研究し実践するものが増え、昭和五〇年の厚生省研究班の診断基準発表以後一般に広まつたもので、控訴人恭子が出生した昭和四五年一〇月、一一月ころの一般的知見ということはできない。
三控訴人らは、飛梅の過失として当審に至り(1)同人の恭子に対する酸素投与が適切でなかつたから本症を発症させたという過失を追加し、原審以来主張している同人が(2)早期から青野に依頼して定期的眼底検査をなすべき義務を怠つた過失(3)副腎皮質ホルモン等の治療を怠つた過失(4)光凝固法説明義務を怠つた過失を主張し、青野の過失として(1)自発的に飛梅に協力して定期的眼底検査が実施されるよう措置すべき義務を怠つた過失(2)副腎皮質ホルモン投与による治療を怠つた過失(3)転医を含めた光凝固法説明義務を怠つた過失(4)昭和四五年一二月二五日の恭子の眼底検査では本症罹患の有無が不明であつたのに、その診察結果を正確に控訴人仙三夫婦に告知せず、近接した時期に再度眼底検査を受ける必要があることを説明しなかつた過失を問うているので以下順次判断する。
四控訴人恭子の保育経過
(一) 当事者間に争いない事実及び<証拠>を総合すると、次の事実が認められる。
1 控訴人恭子は昭和四五年一〇月二七日午前九時四五分丸亀市の三木産婦人科医院で逆子で出生し、生下時体重は一二五〇グラム、無呼吸時間一〇分という仮死状態(アプガール指数でいうと零か一)であつた。これは分娩予定日が翌四六年一月九日ころであつたのに母の美智子が姑の遭遇した交通事故のショック等のため約二か月半早く生まれ、在胎週数が二九ないし三〇週にすぎなかつたためであつた。自然破水から出生までに五二時間を要し低酸素状態が永かつた。
2 三木産婦人科医院は控訴人仙三、美智子に恭子の状態では未熟児を保育できる専門病院へ送らねばならぬことを告げ、国立善通寺病院と被控訴人が設置している坂出市立病院のどちらにするかの選択を求め、こちらでは坂出市立病院の方へ送つているといつたため美智子らは坂出市立病院を選んだ。
3 要請を受けた坂出市立病院の医師飛梅は看護婦とともに携帯用保育器をもつて三木産婦人科医院に赴き、同日午前一一時一〇分恭子を坂出市立病院の未熟児センターに入院させ保育器に収容した。当時の恭子の身体状況は栄養不良で痩せ、手掌、足底に強いチアノーゼ(酸素不足による低酸素症)全身性浮腫があり、黄疸はなく、呻き声を発し、心臓の拍動数多くリズム不規則陥没呼吸あるいは無呼吸発作状態もあつた。肺は通気性不良、眼裂稍狭小の異常があり、一般状態は悪かつた。
4 飛梅は恭子にレスビゴン、ビタミン、ケブリンを投与し、全身状態からみて同日午前一一時三〇分から酸素投与の必要を認め、環境濃度で一分間三リットルの酸素を与えた。この三リットルというのは流量計によるものであるから酸素濃度からみると三〇ないし三五パーセントに、二リットルは二五ないし三〇パーセントに当る。空気中の酸素濃度は約二〇パーセントであるから五ないし7.5割多い酸素を投与したことになる。入院日の午後になると恭子の呻吟はなくなり啼泣があり、羊水を嘔吐した。看護婦は三時間ごとに恭子を観察し必要な処置を行い、看護記録に記入した。
5 以下二八日以後の恭子の症状で特異なものと処置を掲げる。
一〇月二八日 午前三時以降チアノーゼは消失したが啼泣は続いた。
午前九時 酸素を一分間二リットルに減らした。
全身浮腫、元気なし。
二九日 午後六時 足底にチアノーゼ現わる。
三〇日 午前九時 体重一〇〇〇グラムに減少した。
黄疸あり。
午後三時 黄疸止めのためアクサーACTHを注射。
午後六時 五〇パーセントのブドウ糖二CCを注射。
午後九時 プレミルクの投与を始めた。それまでは絶食であつた。
三一日 午後三時 アクサーACTH注射。手脚を動かす。
一一月一日 正午 アクサーATCH注射。
二日 午前九時 体重は九五〇グラムに減つた。
五日 手脚を動かす。
六日 午前九時 体重は一〇〇〇グラムになつた。当日飛梅は酸素を一分間一リットルにすることを指示したのでそのとおり実行された。
七日 午前三時 足底にチアノーゼあつた。
八日 午後六時 デュラポリン五ミリグラムを筋注した。
九日 午前九時 酸素投与を停止した。
一〇日 よく動き痩せている。栄養状態不良。
一一日 午前九時 体重一一一〇グラム。よく動いた。
一二日 手脚を動かす、栄養状態不良。
一六日 午前九時 体重一三〇〇グラム。よく動く、栄養状態不良。
一八日 午前九時 体重一四〇〇グラム。
一九日 よく動いている。
二〇日 午後三時 体重一五五〇グラム。よく動いた。
二二日 午後三時 体温37.9度につき氷枕。
午後六時 体温三七度。
二三日 午前六時 体温三八度につき氷枕。
二四日 よく動く、栄養状態不良。
二五日 午前九時 体重一六七五グラム。運動活発。
二七日 午前九時 膿湿疹ありマーキロ塗付、体重一七五〇グラム。
三〇日 正午 体重一九〇〇グラム。
一二月一日 午後三時 体重一九二〇グラム。
二日 正午 経口哺乳開始。よく動く。
四日 体重二〇八〇グラム。
七日 体重二二五〇グラム。
八日 発熱あり37.8度。コットは出た。
九日 体重二二三〇グラム。
一一日 体重二二一〇グラム。
一四日 体重二二六〇グラム。
一六日 体重二三七〇グラム。
一八日 体重二三三〇グラム。
二三日 体重二七〇〇グラム。
二五日 午後五時 体重二七六〇グラムとなり発育順調で異常がなかつたので退院した。
乙第二号証の看護記録には一一月六日に酸素を一分間一リットルとした旨の記録がないので、そのとおり実行されたのかどうかやや疑いがあるが、乙第一号証の入院診療録四枚目表の医師指示書と体温表の記録及び原審証人飛梅薫の証言を措信し、一一月六日から一リットルに減少されたものと認める。
5 恭子の入院中父母の仙三、美智子は度々坂出市立病院に赴き看護婦や医師の飛梅に恭子の容態をきいた。特に美智子は自分の母から未熟児で失明した実例(これは後に昭和四二年生の訴外宮崎誠のことであると判つた)があるから注意せねばならぬといわれ、仙三も知り合いの人から未熟児を保育器に入れると眼を悪くすることがあるという趣旨のことをきいたのでそのことについて尋ねたところ、看護婦も飛梅も「大丈夫だ」「心配は要らぬ。酸素もそんなに使つておらぬし」という返事であつた。この入院中飛梅が自ら恭子の眼底検査を試みたり眼科医にそれを依頼したことはなかつた。
6 退院は坂出市立病院の指示で昭和四五年一二月二五日午後一時ときまつたので、仙三、美智子が恭子を受取りに病院に行つたところ、飛梅は外出していて不在で看護婦が今後の養育方針について何の指導もせず恭子を渡そうとしたので、仙三と美智子が「恭子の眼の検査はすみましたか」ときくと看護婦が「していない」という返事なので「それでは困る、診てもらつてくれ」と要求した。そこで看護婦が外出中の飛梅と連絡をとり飛梅から眼科の医師青野に対する眼底検査依頼の照会票(乙第三二号号証の一)を渡した。それには「恭子は未熟児で在胎三〇週、一二五〇グラムの未熟児につき眼底検査御願い致します。酸素は三〇%を七日一五%を七日使用しております」と書いた。
7 当時の飛梅は自分の取扱つた未熟児の全部について眼底検査を依頼することはなく、生下時体重一五〇〇グラム以下の未熟児で酸素を投与した場合、眼底に異常を来すことがあり、異常があればこのことを両親に告げねばならぬから退院までに一度眼底検査を依頼する方針であつた。しかるに本件恭子の場合は飛梅が進んで眼底検査を依頼したのでなく、恭子の両親の美智子夫婦からいわれて青野に眼底検査を依頼したのである。仙三、美智子はこの手続だけに二時間余待たされた。
8 小児科の飛梅から眼底検査の依頼を受けた青野は、看護婦が型どおりの散瞳剤を投与した恭子の眼底検査を行つたが、ていねいに検査しなかつた故か、青野の技術上の未熟さのためか、正確な眼底検査を行わず、眼底検査が終つたとして恭子を両親に引取らせ両親に何の説明も指示もしなかつた。仙三、美智子は恭子を渡された看護婦から「恭子はまだ小さいから瞳孔が十分開かないが大丈夫ですよ。」「また暖かくなつたら一度連れて来なさい」といわれたので、眼の方は大丈夫と思い喜んで恭子を連れて帰つた。美智子夫婦は当時暖かくなつたらというのを春ころになつたらという意味に解釈した。帰宅後、仙三が懐中電灯で恭子の眼を照らしてみたら瞳孔が縮み反応があつたので仙三と美智子は安心した。仙三、美智子が恭子を連れて病院を出て家に帰つたのは午後五時ころであつた。美智子夫婦が坂出市立病院を出たころには飛梅は同病院に帰つていたらしいが、美智子夫婦は何も知らされず、恭子の今後につき飛梅から何の指示指導を受けることがなかつた。
9 乙第三一号証は右の検査時の坂出市立病院の国民健康保険診療録であるが、診療開始日として四五年一二月二五日とあるのみで検査結果その他について一切記載がなく、また青野は飛梅からの照会に対する回答書に診断、所見について一切記載せず放置し、飛梅に対し口頭で報告することもしなかつた。そのため飛梅は恭子の眼に異常はなかつたものと解釈し、青野に尋ねることもせず、その後恭子の両親に何の指示もしなかつた。
10 獣医師である控訴人仙三はその後も時々恭子の眼に懐中電灯をあて自ら検査を行い、美智子も恭子に日光浴をさせるようなとき恭子が眩しそうにして反応を示しその他の生育も順調であつたので、同年二月初旬恭子が乳を嘔吐したのでかねて飛梅から知らされていた中山小児科医院で診察を受けたことがあつた以外、医師の診断を受けることはなかつたが、退院後五十数日を経た昭和四六年二月二〇日過ぎ、美智子が電灯のもとで恭子にミルクを飲ませているとき、偶然瞳孔の中がビー玉様に透けてみえたので異常を感じ、仙三と相談し、二月二三日香川労災病院に赴き青野の診断を受けたところ、同医師は眼底検査をした後美智子に「恭子は後部水晶体線維増殖症すなわち未熟児網膜症の瘢痕期の5度にかかり失明している。もう治療の方法は日本にも外国にもない」といつたので、美智子が「恭子の眼はいつ悪くなつたのか」ときくと、青野は「一二月二五日に診たとき本症の第3期になつていた。あのとき親御さんにこれを伝えると心配するのでいわなかつた」といい、また美智子の「恭子はいつの時点だつたら処置方法があつたのか」との問に「病院へ預つている間ですね」と答えた。このため美智子夫婦は早速同月二六日青野の紹介で岡山大学医学部眼科の奥田観士教授の診断を乞うたが、結果は青野の診断と同じであり、原因は「酸素である」といい「もう治療方法はない。後は教育だけを考えよ」といわれた。美智子夫婦はその後も東京の国立小児科病院の奥山和男、同病院眼科部長の植村恭夫、国立善通寺病院の松原稔、国立岡山病院の山内逸郎の各医師に頼み恭子の診断を受けたが、恭子の失明の原因は酸素でありその治療は既に時機を失していて、できぬという趣旨のことをいわれるばかりであつた。
11 恭子の失明について治療方法がなく、もう教育により恭子の今後を考える以外にないと知らされた美智子夫婦は、恭子に普通児並の幼児教育を与えたいと東京都心身障害者福祉センターや東京教育大付属盲学校を訪れ幼児教育を頼んだが断られたので、同じような悩みをもつ母親の声を集め香川県立高松盲学校に依頼して特別な幼児教育を依頼する等涙ぐましい努力を続けている。この努力に対し丸亀市長が表彰状を贈つた。
以上のとおり認められ、この認定に反する原審証人飛梅薫の第一回供述にある、同人は小さな未熟児で眼底検査を必要とすると考えた場合は退院までに一度眼底検査を依頼するのが一般であつたから、恭子の場合もそれと同じく進んで青野に依頼して眼底検査をしてもらつたという部分と恭子の退院当日控訴人らが挨拶に来たので会い、定期的に健康診断を受け、必要があれば眼についても眼科医と相談せよといつたという部分は、乙第一、第二号証にそうしたことの記載がなく、退院時に仙三、美智子の求めで眼底検査をするようになつたという原審、当審における控訴人仙三、美智子各本人尋問の結果と比べて措信できない。
また原審、当審証人青野平の供述にある、昭和四五年一二月二五日青野は恭子の眼底を倒像鏡と直像鏡の両方法で検査し、恭子の眼の散瞳は不十分でも剥離が認められたから、本症のオーエンス分類にいう活動期の四期に入り失明状態になつていたことが判つたが、これを親に告げると衝撃を与えるから告げなかつたという部分は、同人の原審での供述の前の方の部分に同人は看護婦を通じ恭子の瞳孔が開きにくかつたのではつきりした所見はわからん、未熟児で冬でもあるので暖かい日に香川労災病院へ来るよう伝えたとあるのと一致しないし、当日仙三、美智子は恭子に本症の発症がないかどうか、その虞がないかということに重大な関心をもち眼底検査がすまない限り恭子は引取れないといつて長時間待つていたのであり、そのことが看護婦に伝わつたはずと思われるのに、青野の傍らにいて眼底検査を介助していた看護婦が仙三、美智子に恭子の眼底検査の結果について何も伝えることなく、恭子は「大丈夫だ、また暖かくなつたら連れてくるように」と春になつてから再び眼底検査を受ければよいと解釈される返事をしていることと相容れないことに鑑みると青野の供述は大変不自然であること、被控訴人が当時の看護婦を証人として出廷させないのもやや不自然であること、青野が当時の診療録(乙第三〇号証)や飛梅からの照会への回答書(乙第三二号証の二)に何にも記録せず、検査結果について飛梅に何らの報告をした形跡がないことに照し青野の前記供述は措信できない。
原審証人藤岡満子の証言によると青野は訴外藤岡良樹の失明を診断したときも、母親の藤岡満子に失明のことを口に出して明言しなかつたことが認められるが、このときは青野が口に出さなくても藤岡満子は良樹の失明のことがよく理解できていたし、青野は良樹の診療録(成立に争いのない甲第二六号証)に良樹の本症のことを書込んでいるので本件の場合と同視することはできない。
また当審証人青野淑子は、昭和四五年一二月二五日の晩は夫の青野が忘年会から帰つた晩で、当日控訴人恭子の眼底を診た旨の話をしたと供述しているが、十二年近く前のことを今更正確に覚えているとは思えないのでこの供述も措信しがたく、原審証人西山トシ子、同岡田信子の各証言も前記認定を左右するものではない。
医師法第二四条で医師に義務づけられている診療録に何らの記載のないことは、青野が当然なすべき診療をなさなかつたと推定されてもやむを得ないが、当裁判所は左様なことのみで判断しているのではなく、前記諸事実のもとで以上のように判断するのである。
また原審当審における証人青野平の供述にある、同人が昭和四五年一二月二五日恭子を診たとき、恭子は既に本症の活動期の第四期になつていて失明状態になつていたという部分も、恭子は退院後も父仙三が懐中電灯で恭子の眼をみたり母の美智子が日光浴をさせたときは眩しそうにして反応を示し、それから五十数日経つて恭子の瞳孔の中がビー玉のように透けてみえたという控訴人美智子、仙三各本人尋問の結果の方が措信できるので証人青野の前記供述は措信できない。控訴人仙三は獣医師で動物の眼を扱つており、人間の眼も動物の眼と相通ずるものがあることは当然であるから、控訴人仙三、美智子各本人尋問結果の方が措信できる。
(二) 右の認定事実によると、青野もその他の者も昭和四六年二月二三日まで恭子の正確な眼底検査をしていないので恭子の本症発症時期、その進行の程度の判断は難しく、被控訴人主張のごとく昭和四五年一二月二五日当時既に失明状態になつていたのでないか、発症はしていたがまだ失明状態にはなつていなかつたのでないか、あるいは恭子が退院した後、発症を始め失明状態に入つたのでないか等いろいろの場合を想定できるが、当裁判所は控訴人仙三、美智子各本人尋問の結果にある恭子は退院後も日光浴時等には眩しそうに反応を示し、瞳孔に異常がみられなかつたのに五十数日を経て恭子の瞳孔がビー玉のように透けてみえたということ及び本症の活動期は生後二週ないし三か月、とりわけ三週ないし八週に発症するものが多いこと、昭和四五年一二月二五日は恭子の生後六〇日目であり同四六年二月二三日は出生後一二〇日目であること、証人青野平の原審での供述に昭和四五年一二月二五日当日、恭子の眼底に白色の反射が明らかに認められたという部分があること、恭子が在胎週数約三〇週の未熟児であつたことに鑑み、恭子の本症は昭和四五年一二月二五日ころには発症を始めており、翌四六年二月二三日ころまでに失明していた蓋然性が高いものと推断する。
被控訴人は、控訴人仙三本人尋問の結果に異論を述べ、恭子は昭和四六年二月二三日から一か月以上前に、その瞳孔反応は消失していたはずだといい、当審証人青野平は恭子の眼の異常は昭和四六年二月二三日の三日前くらいに起こつたとは思えず、それから一週間か二週間前には変化があつたものと推認され、仙三、美智子が恭子をよく観察していたらそのころ異常を確認できたはずであると証言している。人間の医師でない仙三やその妻の美智子のことであるからある程度の不正確さは免れないであろうが、被控訴人の主張や青野の右証言によると恭子の発症はもつと早く、昭和四五年一二月二五日当時恭子の発症が始まつていた可能性は一層強いものと推認でき、当時青野が正確に眼底検査をしていたら恭子の症状の正確な把握は可能であつたと推認できる。
五未熟児網膜症に対する医師飛梅、青野の知見等
(一) 原審証人飛梅薫の第一回証言によると、同人は昭和三六年三月福島大学医学部を卒業しインターンを経て翌三七年七月国家試験に合格して医師となり、同四〇年一一月まで岡山大学大学院で小児科学を専攻しその間未熟児保育施設のある岡山日赤病院ヘパート勤務で行つたことがあること、その後同四一年六月まで尼崎市の橘病院の小児科に勤務し、同年七月から坂出市立病院の小児科に勤め同四六年七月退職するまで外来、入院患者、未熟児を担当し、それまで扱つたことのない未熟児を年間六〇ないし八〇人くらい診療し、昭和四一年から同四五年までの間に出生時一五〇〇グラム未満の未熟児四三人を扱つたが、そのうち二七人は呼吸障害等で死亡したこと、こうした極小未熟児には退院時に青野に依頼して眼底検査をしてもらつていたこと、本症について特に研究したことはなく、酸素が原因で発症するかも知れないが濃度を四〇パーセント以下にしておけばまず心配がない、四〇パーセント以下にしておいても発症することがあるので、退院までに眼科で検査してもらうとよい、本症は自然発生的な不可避のものであると認識していたこと、日本小児科学会と先天異常学会に所属し、未熟児保育については高津忠夫の「小児科指針」(乙第一一二号証)に則つていたこと、これには未熟児に酸素を与える場合、本症予防のため環境酸素濃度は通常四〇パーセント程度以下にする、酸素濃度の低下は緩徐に行うとあつたのでこれに則るのを基本としていたこと、「小児科診療」「小児科臨床」「日本小児科学会誌」を定期購読し、またメアリークロス著の「未熟児」を参考とし、テキストブックにはファンコニー、ネルソンのものを用いていたこと、昭和四二年三月日本新生児学委員会が未熟児の保育基準を出したことを知つていたが、それには酸素投与の基準はなかつたこと、岡山大学の眼科講義では未熟児に本症の起こることがあることを聴講したことがあるが、治療方法については講義がなかつたこと、坂出市立病院に赴任以来、未熟児特に小さいものには本症により失明するものがあることを知つていて必要ありと考えたものには退院までに眼底検査を依頼して行つていたこと、国立善通寺病院では昭和四四、五年から定期的に眼底検査を行つているのを知つていたこと、小児科の教科書には本症の治療方法としてステロイドホルモンを使つてみると書いてあるものがあることは知つていたが、未熟児に余分なホルモンを与えると内分泌機構の発育を抑制し、感染症への抵抗力を低下させると考えその使用には消極的見解であつたこと、昭和四五年ころ一部の医師が本症に光凝固法を用いて治療に当たつていることは知つていたが、未だ一部の人の研究段階であつて一般に実用化されるとは思つていず、本症に治療法はないと思つていたことが認められ、<証拠>によると、訴外田中良樹(元の姓は藤岡)は昭和四五年五月二一日に生下時体重一〇四〇グラムで生まれた未熟児で同日から同年七月二〇日退院するまで坂出市立病院で飛梅の手で保育されたが、同人も本症で失明したことが認められ、飛梅はこの田中良樹についても退院まで眼底検査を依頼して行つたことがなく、退院時に両親に脳性麻痺や視力障害が出る虞れがあるので、退院後住所近くの眼科医に診てもらえと指示したと思つていること、同人の失明につき飛梅は網膜膠腫によるものと思つていて、本症によるものだと知つたのは昭和五二年であるといつている。
(二) <証拠>によると、青野は昭和三二年三月岡山大学医学部を卒業し一年間東京都世田谷の国立大蔵病院でインターンを行い同三三年四月から四年間岡山大学眼科数室に入るとともに同大学大学院で外科系眼科学を専攻し、岡山大学医学部講師、眼科医局長を経て、昭和三九年九月丸亀市にある香川労災病院眼科部長として赴任するとともに一週間に三日午後のみ坂出市立病院の嘱託医として眼科患者を半日で普通七、八十人、多いときは百人も診療に当り、小児科医からの依頼で未熟児の眼底検査も一年に二、三例は実施していたこと、本件恭子の診断以前にも本症による失明ないしそれに近い弱視例を香川労災病院で一、二例経験し坂出市立病院で失明した未熟児の宮崎誠と藤岡良樹(旧姓田中)のことを知つており藤岡の場合は昭和四五年一〇月七日同人が瘢痕期の五期になつていると診断したこと、青野が一番研究したのは角膜疾患、斜視、弱視疾患で、日本眼科学会と日本眼科医会の会員として文献は「眼科」、「臨床眼科」、「眼科臨床医報」、「日本眼科学会報」等を購読して研鑚していたこと、本症に興味をもつたことはないが、昭和三四、五年ころから本症のことを知り、岡山大学医学部の研究室にいたとき本症の瘢痕期患者一、二例に接したことがあること、昭和三八、九年ころから植村恭夫が度々この方面の知見を発表し未熟児の眼底検査の必要性を説いているのを読んでいたこと、昭和四三年四月天理病院の永田が「臨床眼科二二巻四号」(甲第一〇号証)に同人が日本臨床眼科学会で行つた講演を記事としたものにおいて、永田が「生下時体重一四六〇グラムと一五〇〇グラムのオーエンス二期から三期へ進行中の網膜症に罹つている未熟児に光凝固法を施行し頓挫的に病勢の進行を停止させることができた。その後の観察により眼底は周辺部の光凝固の瘢痕以外はほぼ正常である。本症には自然緩解があり、光凝固施行の時期には問題があるが、十分な眼底検査による経過観察により適当な時期を選んで行えばあるいは重症の未熟児網膜症に対する有力な治療手段となる可能性がある。」と述べているのを読んだが、光凝固法の実施はまだ実験段階であり一般化できるものとは思つていなかつたこと、こうした先駆的研究による治療方法は多くの追試験を経て定説となるまで自らは実行できないと考えていたこと、副腎皮質ホルモン投与が本症に有効であるとは認識していなかつたこと、坂田市立病院では嘱託医であつて定期的眼底検査をなす協力を求められたことはなく、飛梅から要請があればそれに応じていた程度であつたことが認められる。
六訴外松下誠の治療経過と控訴人仙三と松原稔医師との旧知関係
<証拠>によると、訴外松下誠は昭和四五年一一月五日に出生した当時の体重一二七〇グラムの未熟児であつたこと、直ちに国立善通寺病院未熟児センターに収容されて保育を受け、生後一週間くらいは生育が危ぶまれるくらいの呼吸障害があり酸素投与を受け翌年一月ころには眼底検査で本症罹患を告げられたこと、その後右鼠蹊部ヘルニヤ、癒着性イレウス等の手術を受け一度は本症は自然治癒したとみられたが、同年三月二五日重ねて眼科医松原稔の眼科検査を乞うたところ同医師より、誠は本症の重症にかかり善通寺病院では治療ができない、天理病院でこの方面の研究が進んでいるといわれ、両親が夜を徹して奈良県の天理病院を訪れて入院させ、翌二六日夕方から光凝固法による手術を受け同年五月天理病院を退院したこと、手術後永田から「もう一週間おくれていたら失明しただろう、これでも弱視になるだろう」といわれ、その後も両眼とも0.1の視力しか保つていないが完全失明は免れたこと、永田の指導で退院後も半年に一回は来るようにといわれ、昭和五一年二月にも重ねて同医師より光凝固手術を受けたことが認められ、国立善通寺病院では杢保淳子の働きかけで昭和四四、五年から松原に依頼し未熟児に対する定期的眼底検査を行つていたことは当裁判所の引用する原判決理由二(五)3記載のとおりである。
<証拠>によると、獣医師の仙三は恭子の出生前、たまたま国立善通寺病院の前記眼科医松原稔所有の犬を治療したことがあり、同医師が右病院勤務の医師であることも知つていたこと、昭和四六年二月二三日に青野から恭子の本症による失明を告知されるや、急いで本判決理由四(一)10で説示のとおり奥田観士、奥山和男、植村恭夫に頼んで恭子の診断を受けたのち、なお念のため同年六月ころ松原稔を尋ねて松下誠の治療例や同病院における未熟児の眼底検査の実状を初めてきかされ、恭子を同病院へ入院させなかつたことを痛嘆していることが認められる。
七訴外藤岡良樹の本症について
<証拠>によると、訴外藤岡良樹(旧姓田中)は、昭和四五年五月二一日坂出市立病院で生まれた生下時体重一〇四〇グラム在胎週数三二週の未熟児で、保育器に入れられ飛梅の保育を受け同年六月一四日まで酸素を投与され同年七月二〇日体重二六一〇グラムになつて退院したが、先天性心臓弁膜症があり一般状態は余りよくなかつたこと、退院に当り飛梅は何らの注意も与えなかつたこと、退院後日が経つのに眼の焦点が合わず眼がおかしいことに母の満子が気付き同年一〇月七日坂出立市病院で青野の診断を受けたところ、本症に罹り失明していたことが判つたこと、青野は満子に「未熟児で生まれ保育器に入れられていたら半年に一回眼の検査を受けねばならぬことを教えられなかつたのか」ときくので「何もきいていない」と答えたこと、青野は良樹の失明のことを口で明言しなかつたが満子は良樹の失明のことをよく理解できたこと、その後良樹が満一歳のとき徳島大学医学部眼科で受診したが「もう駄目である」といわれ、その後本症による視力は両眼ともなし(矯正不能)という身体障害者手帳を受けていること、飛梅はこの良樹が失明していることも昭和五二年ころまで知らなかつたことが認められる。
八以上当裁判所の引用する原判決の説明と前記四ないし七で認定した事実に基づき、坂出市立病院医師の過失について判断する。
(一) 飛梅の恭子に対する保育上の過失について
控訴人らは当審に至り医師飛梅が恭子の保育中必要以上に酸素投与を行つたりその加減を誤つたため本症を発生させたとの主張を付加したが、前記四で認定した恭子に対する保育状況を見ると、恭子は生下時体重は一二五〇グラム在胎週数二九ないし三〇週の小さな未熟児で、出生時は約一〇分間仮死状態にあつたうえ痩せて黄疸とチアノーゼがあり、低酸素症であつたから、全身状態の保持、脳疾患予防のため酸素を供給せねばならぬ状態にあつた。そのため飛梅が酸素三リットルを二一時間三〇分、ニリットルを九日間、一リットルを三日間投与したのであり、それは一一月七日にもチアノーゼが出ていたことがあることに徴しても必要な処置であつたといえる。本症の大きな誘因が酸素投与にあり恭子の本症発生がこの酸素投与のためであろうことは認められるが、原審証人飛梅薫の証言にある酸素三リットルというのは環境酸素濃度でいえば三〇ないし三五パーセントくらいと認められるので当時の一般的知見である環境酸素濃度四〇パーセントより低く、三リットルの投与は二一時間三〇分くらいで当時の症状からいつてやむを得ないし、その後のニリットルを九日間一リットルを三日間の投与も恭子の体重が一〇〇〇グラム以下のときを中心とし体重一一〇〇グラムまでくらいの期間であり、全身状態特に脳障害の発生を未然に防止するため必要でなかつたと考えることはできないので、この処置を失当とみることはできない。
メアリークロス著大坪佑二訳の「未熟児」という昭和三八年六月一〇日刊の書籍(<書証>)には「酸素がないとチアノーゼを起す児には酸素の投与が必要であるが、酸素の濃度は皮膚を良い色に保ち得る程度の最低限の濃さにする。一〇分間以上持続的に使用するときには後水晶体線維増殖症の危険があるから濃度は三〇パーセントを越えてはいけない。チアノーゼの発作から蘇生させるためには短時間なら純酸素を与えても安全であるが八ないし一〇分間より長く濃度を必要とするときには特別な予防策を講じなければならない。たとえば極小未熟児が純酸素を投与したときだけピンク色であるようなときには次のようにすれば良い結果(生存、知能発達、および後水晶体線維増殖症の回避に対して)が得られる。すなわちまず八ないし一〇分間純酸素を与え、それから軽いチアノーゼが現われるまで酸素を中止し(眼の動脈を拡張させるため)、この処置を必要なだけ繰り返す。これは時間のかかる方法であるが視力を救い、さらには生命をも救うための処置である。出生時体重二〇〇〇グラム又はそれ以下のもの及び生後二週間以内に酸素を使用したものは、すべて予防処置の結果を確かめるために、退院前に眼の検査を行う」といい、厳格な酸素管理を要求し、その他控訴人ら提出の甲号証中にはこれに似た記事のものがあり、東京大学高津忠夫監修の昭和四五年版「小児科治療指針」(<書証>)も酸素濃度は三〇パーセント以下がよいといい、従前唱えていた酸素濃度四〇パーセント以下といつていたのを改めていることが認められるが、これはそのころから酸素に対する警戒が一層強まつた結果であつて恭子が生れた昭和四五年一〇月ころの一般的知見とはいえないし、その後の恭子は本症発症を除けば順調に生育し生後五九日目にはもう未熟児保育室で保育の要のないまでに保育の実を上げ、黄疸その他の疾病に対する処置、発熱時の氷枕、必要な栄養の増加等も行われその診療を非難できないので、この保育不完全を理由とする控訴人らの主張は採用できない。
(二) 飛梅と青野の定期的眼底検査義務について
控訴人らは、主治医の飛梅は早期より青野に依頼して定期的眼底検査を行い、また青野は自発的に飛梅に協力して定期的眼底検査を行い、恭子の本症を早く発見すべきであつたという。
恭子が入院中飛梅も青野も定期的眼底検査のみならず退院時まで恭子の眼底検査を行わなかつたことは前記認定のとおりである。
理想からいうならば、飛梅、青野が恭子の生後三週間目から一週間おきくらいに恭子の眼底検査を行い本症発生の有無を調べておれば速やかに本症の発生を知り得た可能性が強いが、恭子が出生した昭和四五年一一、一二月当時のわが国内の定期的眼底検査の普及度と光凝固法に対する認識の程度、坂出市立病院と同病院の医療体制等は当裁判所の引用する原判決理由二(五)(六)、三のとおりであり、一部の専門的先駆的医療機関は別として、坂出市立病院程度の一般の未熟児保育機関では未だ定期的眼底検査の必要性の認識が低くて普及しておらず、飛梅や青野もその切実さを感じていなかつたこと、治療方法も後記のごとく薬物療法が有効だという証明はなく、冷凍凝固法はまだ発表されていなかつたし、永田の行つた光凝固法はそういう方法が試験的に行われだしたことを知つている程度でそれが確実、有効な方法で当然に行うべきだとの認識があつたとはいえず、結局本症には未だ有効な治療方法はないと認識されていたので、有効な治療方法と結びついた眼底検査の必要性を痛感していなかつたこと、なお恭子の主治医は飛梅であり坂出市立病院では要請がなくても眼科医が進んで未熟児の眼底検査をする体制がとられておらず、今日のように当然そのような協力をなすべきだという風潮にもなつていなかつたのであるから、飛梅が青野に依頼し早期から眼底検査をしなかつたこと及び青野が進んで眼底検査をしなかつたことを以て同人らに過失があつたということはできない。
植村ら一部の先駆者がかなり早くから未熟児の眼底検査を提唱していたほか控訴人ら提出の文献に眼底検査の必要を説いたものがあることは認められるが、それらを以てしても当時それが広く一般的に実施されるべきものとの認識を抱かせるものであつたとは認めがたいので、これらを以てしてもこの点で飛梅、青野に過失ありというのは相当でない。
控訴人仙三、美智子は美智子の母から未熟児は眼に障害の出る虞があることを知らされ、恭子の入院後飛梅や看護婦に眼を特に心配していることを告げていたことは既に認定したとおりであるから、飛梅としては仙三夫婦の意を汲み、より積極的に恭子の眼底検査を眼科医に依頼し情報を得ることがよかつたとは思われるが、恭子出生当時の飛梅の知見では恭子に投与された程度の酸素によつては本症の発生はほとんどないと考え、その知見は当時この地方における臨床小児科医師の一般的知見とみられること前記のとおりなので、飛梅も積極的な眼底検査の必要を痛感してなかつたものと想像され、こうした事情があつても眼底検査をしなかつたことに過失があるとはいえないものと判断する。
なお控訴人らは、坂出市立病院が児童福祉法による指定養育機関となつていて自らも未熟児センターを称していたことを理由に未熟児保育に高度の注意義務があつたこと、同じ香川県にある国立善通寺病院ではつとに未熟児の眼底検査を行い、控訴人恭子と出生時期がほぼ同じである未熟児の松下誠に眼底検査を行つて本症を発見し失明を免れさせたことを理由に坂出市立病院が定期的眼底検査を行わなかつたことを非難しているが、法律に基づき指定養育機関とされ未熟児センターを標榜していることはそれだけ患者に大きな期待をもたせたとは認められるが、前記事情のもとではこのことの故に直ちに当時定期的眼底検査の義務があつたものとみることはできない。
また控訴人らは坂出市立病院と国立善通寺病院がその規模、未熟児の収容数等において差がないのに善通寺病院ができたことが坂出市立病院にできなかつたはずはないといい、前記認定の松下誠の場合を考えるとその主張は傾聴に値するが、これは善通寺病院は当時研究心に富み、本症を先駆的に臨床研究の対象としていた小児科と眼科の各医師に恵まれその協力診療体制ができていたためで、こうした医師に恵まれていなかつた坂出市立病院とは事情を異にし、眼底検査が一般的になさるべき事情にあつたとは認めがたいのでこの主張も採用できない。
(三) 副腎皮質ホルモン等の薬物療法をしなかつた過失について
飛梅、青野が恭子に副腎皮質ホルモン等による薬物療法を試みた例が報告されていたことは控訴人ら主張のとおりであるが、これらの薬物療法の効果は当裁判所の引用する原判決理由二(四)や前記厚生省発表の診断基準に説明のごとくであり、本件全証拠によるも今日までこれらの療法が本症に有効で当然これを施用すべきであるということが定説ないし有力説であるとは認めがたいので控訴人らのこの主張は採用できない。
(四) 飛梅、青野が控訴人らに光凝固法を説明しなかつた過失について
飛梅が控訴人らに光凝固法について何の説明も行わず恭子にその治療法を受ける機会を与えなかつたことは控訴人ら主張のとおりであるが、薬物療法についても同じことがいえるが飛梅は恭子に本症が発症していたこと又はその可能性のあることの認識も少なかつたのでこれを説明する必要を感ぜず、かつ当時飛梅は本症への光凝固法の施行は一部の先駆的研究者の間で行われていることを知つている程度で、これが有効で一般に実用化される段階にあるとは認識していなかつたこと前記認定のとおりであるから、同人にこれについて過失があつたということはできない。青野については後に説明する
(五) 青野の過失について
以上の説明と、被控訴人が主張するように昭和四五年一二月二五日当時恭子が本症で既に失明していたとすると、飛梅や青野の過失を問うことはできないことになるが、当裁判所は昭和四五年一二月二五日当日、青野は飛梅を通じ恭子の眼底検査の依頼を受け形式的に検査したが、正確にその検査をしなかつたか検査できなかつたと認めること前記のとおりである。
当時の青野の本症に対する知見は、光凝固法は先駆的医師により試みられているもので追試等を経た有効な治療法であるとは思つておらず、副腎皮質ホルモン等による薬物療法も有効なものといえず、未だ本証の有効な治療方法はないのでそれと結びついた眼底検査の必要性を認識していなかつたとはいえるが、同医師は当時既に眼科医として十二年余の経験を有し、未熟児の保育には酸素が必要であるとともにその反面本症の原因又は誘因であることを認識していたこと、前記のごとく昭和四五年一〇月七日訴外藤岡良樹が本症で失明したことを診断して本症の例を知つていたのみならず、飛梅からの照会票(乙第三二号証の一)には、「恭子は在胎三〇週、一二五〇グラムの未熟児で眼底検査を御願いします。酸素は三〇パーセントを七日一五パーセントを七日使用しています」とあつて、酸素投与のことが書いてあるのは患者である恭子の本症罹患の有無の検査を専門家である青野に依頼したものであることが明らかであるから、青野は誠実に眼底検査を行いその結果を正直に報告すべきであり、当時の恭子の容態あるいは青野の技術では正確な検査ができなかつたら、不明というものも一種の診断であるからその旨を告げ、数日中に重ねて検査を行うか然るべき医師に転送して正確な検査を受けることを促すべきであつたのにそれを行わず、看護婦をして「大丈夫ですよ」という恭子には本症の心配は要らぬと解される言葉を控訴人仙三、美智子に告げさせたに止まつたことは、医師としてなすべき注意義務を怠つた過失すなわち債務不履行があるといわねばならない。
原審証人青野平の供述中には、同人は当時恭子の散瞳がしにくく、もう一ぺん香川労災病院で検査し、場合によつては大学病院へ紹介するつもりであつたので看護婦を通じて恭子の両親に改めて労災病院へ来るようにと伝えてもらつた、という部分があり、これが青野には当日正確な眼底検査ができないので近いうちに再度検査の要があるという意味なら、青野はその旨を正確に控訴人仙三、美智子らに伝えさすべきであつたのにそれがそのとおり伝えられたという証拠はなく、青野の意を受けた看護婦が控訴人仙三らに伝えた言葉は「恭子はまだ小さいから瞳孔が十分開かないが大丈夫ですよ。また暖かくなつたら一度連れて来なさい」というのであるから、控訴人仙三らが看護婦のこの言葉を青野の眼底検査の結果恭子の眼に心配は要らぬと解釈したのは当然というべきである。また青野が真実早急に再検査の必要を認めていたものなら、それから数日後又はその年末年始の休みが過ぎても恭子の来診がなかつたとき、坂出市立病院の小児科を通じてでも再検査を促すべきが眼底検査の依頼を受けた青野の医師としての責務であるのに、それを怠つた点でも青野に過失があるといわなければならない。
被控訴人は、青野は当時本症につき光凝固法が有効な治療方法であると認識していなかつたといい、青野がそれまでに読んだ光凝固法についての永田の記事を、研究段階にある治験方法にすぎないと理解していたとしても、それは光凝固法によつて進行中の本症が頓挫的にその進行を停止でき治療法として有効であるという記事なのであり、前記六で説明したごとくちようどそのころ善通寺病院で診療を受けていた松下誠が医師より天理病院の永田による光凝固法のことをきかされ、夜を徹して永田のもとに行きその手術を受け辛うじて失明を免れた例もあるから、青野が恭子を検査し本症の発生又はその発症可能性を発見したら、控訴人らに未だ先駆的段階で確実な治療法かどうか判らぬが、光凝固法という治療方法があることを告げることはできたのにそれをしなかつたのは正確な眼底検査をしなかつたためとしか解されず、そこに債務不履行があるといわねばならない。
なお青野の証言にある、昭和四五年一二月二五日、眼底検査をした結果、恭子は既に本症で失明していることが診断できたが、親である控訴人仙三夫婦に衝撃を与えることを配慮してそれを告げなかつたというのが真相であるとしたら、仙三夫婦には告げなくとも眼底検査を依頼した医師の飛梅にはそれを報告し同人と対策を検討すべきであつたのにそれすら行わず、仙三、美智子に看護婦を通じ恭子には本症罹患の心配がないという趣旨のことを告げさせた点でも、青野に診断結果を正確に告知しなかつた過失があるといわなければならない。
当時控訴人仙三夫婦は、未熟児には本症罹患の可能性のあることを知つていて、眼底検査を経ない限り退院させられない、それが済むまで待つているといつていたくらいであるから、もし恭子が本症に罹患していたのならそれを告げられることは望むところであつたし、その場合急遽その対策に奔走したであろうことは想像に難くないのである。
九青野の義務違反と恭子の失明との因果関係
青野に、恭子の眼底を正確に検査せず、かつその結果を控訴人らに正確に報告しなかつた過失があること前記のとおりであるところ、当時永田による光凝固法は未だ先駆的段階で一般には普及せずその他に有効な治療方法がなかつたこと、それに青野が正確に検査をしなかつたため恭子の本症発症時と症状を正確に断定できないので青野の義務違反と恭子の失明との因果関係は難しい問題であるが、本件は坂出市立病院の債務不履行であるから被控訴人において青野が当時正確に恭子の眼底検査をしても恭子の失明は免れなかつたことを証明しない限りその責任を免れない筋合なるところ、当裁判所は昭和四五年一二月二五日当時恭子が既に失明していたと認めないこと前記のとおりである。
しかして当裁判所は前記のごとく恭子は昭和四五年一二月二五日ころ既に発症を始めていたが、未だ完全失明に至らずその後失明した蓋然性が高いものと推認するのでそのころ青野が正確に眼底検査していたら恭子の発症を発見できたといえるし、恭子は当時未だ完全失明に至つていなかつたのであるから、仙三、美智子がそれを知らされ、かつ光凝固法はまだ確実な治療法とはいえないが頓挫的には有効であることを永田が公表していたのであるから、仙三、美智子がかかる治療法が試みられていることの説明を受けたなら同控訴人らがその後恭子のため必死になつて本症の治療法を探し求めた事実からして、恭子に天理病院の永田又はそれに代る医師の診断と光凝固法による治療を受けさせ、松下誠の場合がそうであつたように両眼の完全失明を防止し得た可能性を否定できず、また当時仙三夫婦にはそれができなかつた支障があつたという事情はなかつたのであるから、青野の過失と恭子の失明との間には相当因果関係があるといえる。青野が右のような説明ができなかつた事情は何もないからである。
最高裁第三小法廷昭和五七年三月三〇日の判例は、昭和四四、五年当時、本症につき光凝固法を含め有効な治療方法は一般の医療水準として確立していなかつたし、一般的に眼底検査をなすべき義務はなかつたといい、当裁判所もそれに賛同するが、本件における青野は控訴人らの要求に基づく飛梅の照会で具体的に眼底検査をなすべき義務があつたのにそれを怠つたもので前記判例の場合と同一ではないが、この判断と抵触するものではない。
また当時仙三、美智子が、青野から恭子は既に本症に罹つているが有効な治療方法がない旨を告知説明されたとしても、仙三夫婦がなお恭子の眼底検査あるいは失明回避の診療を求めて遅滞なく奔走したであろうことも容易に推認できるし、さらに前記七で説示したごとく控訴人仙三は善通寺病院の眼科医松原と知り合いでもあつたことに鑑みると、恭子が松下誠の場合のごとく同医師を通じて天理病院の医師永田の紹介を受け、永田又はそれに代る医師の診断と光凝固法による治療を受けて、恭子の両眼失明を避け得た可能性があつたことも否定できないので、青野が昭和四五年一二月二五日、恭子の眼底検査を正確に行わないまま、それを正確に仙三夫婦に告知せず放置していた過失と恭子の失明との間には相当因果関係があるものと判断する。
被控訴人は、青野の検査終了後仙三夫婦は重ねて飛梅を訪れ全身チェックをしてもらい退院後の養育方針の注意を受けることができたのにそれをせず、昭和四六年二月二三日香川労災病院で青野の検査を受けるまで飛梅の診断や注意を受けなかつたのは両親として非常識である、飛梅は、退院の翌日又は翌々日にでも美智子らが同人を訪れたら、美智子らからいわれなくても退院時の基本方針である全身チェックとして眼底検査をすること、その他の諸注意事項を説明し、退院後は一か月ごとに丸亀市の中山小児科医へ定期検診に行くことを再確認するつもりであつたと主張しているが、飛梅、青野は専門家で恭子の保育を託されていたのであるから、退院後の諸注意は飛梅、青野の方で進んでなすべきものであつたのみならず、仙三と美智子は青野より検査結果について大丈夫という趣旨のことをきかされたため重ねて飛梅や青野を訪れなかつたのであるから、控訴人らがその後恭子の眼の異常に気づいて香川労災病院を訪れるまで眼底検査等の診断を受けなかつたことをそれ程責めることはできない。したがつて被控訴人の右の主張は採用できず、このことは青野の責任に消長を来すものではない。
一〇岡の過失について
岡説也が坂出市立病院長であることは当事者間に争いがなく、同病院では岡の着任前から各医師らが集つて週一回昼食会を兼ねた医局会議が開かれ、その席上岡が各医師らに「各医師は関係のある病状については遠慮せず、関係科に照会するように」との一般的抽象的指示をしていたことは当裁判所の引用する原判決理由三(四)のとおりであるが、岡が各医師に控訴人ら主張のような具体的な指導、監督をしていなかつたことは原審証人岡説也の証言により認められるところ同証言によれば岡は内科を専門として本症についての知見はなかつたしかつ病院長というのは病院の行政上の責任者で病院の経営、施設の整備等には当るが、自分の専門としない診断科目について専門的権威をもつ各医師を具体的に指導監督することは期待できないと解されるので、岡が飛梅や青野に定期的眼底検査を行つて恭子を本症発見を促すべき指導監督の義務があつたとは解されないし、青野の前記過失は同人の責任を問えば足り、岡の責任を問うことはできないと解するのが相当であるから岡に過失があつたという控訴人らの主張は採用できない。
一一被控訴人の責任
以上の説明のごとく、坂出市立病院の医師である青野の過失により恭子の本症が適期に発見されなかつたため恭子が失明した蓋然性が高いところ、控訴人らは被控訴人の設置した坂出市立病院と恭子の保育診療を目的とする準委任契約を結び坂出市立病院に対しその保育診療を委ねたのに同病院は善良な管理者としての注意義務を怠つたものであるから、同病院には不完全履行による債務不履行があり、同病院の設置者である被控訴人はこれによる損害を賠償すべきものといわねばならない。
一二損害
控訴人恭子は本症による両眼失明のため一生失明状態を余儀なくされ測り知れない損害を被り、その恭子の両親である仙三、美智子もそれに準ずる損害を被つたことはいうを俟たないが、恭子は在胎週数二九ないし三〇週で生下時体重一二五〇グラムという極小未熟児で身体全部の未熟性が高く、本症に罹患し易い状態であつたこと、青野が昭和四五年一二月二五日当日正確に恭子の眼底検査を行つたとしても当時は未だ発症せずその後に発症した蓋然性もないとはいえないこと、青野が恭子の発症又はその可能性を発見し仙三夫婦に告げ遅滞なく光凝固法を受けることができたとしても当時の知見、技術、恭子の身体からみてその予後がはたして十全であつたかどうかの断定も難しいこと等、不確定要素が多いので一般の損害賠償責任の場合のように逸失利益等の算定により財産的損害を算定し、更に精神的損害に対する慰藉料を算定することはその蓋然性の程度からして不可能なので、そうした一切の事情を勘案した慰藉料のみで損害を算定するのが相当であるところ、当裁判所はそれら本件にあらわれた一切の事情を勘案し被控訴人は慰藉料として控訴人恭子に金七〇〇万円、同仙三、美智子に各金一〇〇万円ずつを支払うべきが相当であると判断する。
なお弁護士費用については本件は債務不履行といえども不法行為に準じて債務者の負担とすることが相当であるところ、事案の内容、認容額等諸般の事情を考慮し、控訴人恭子については金七〇万円、同仙三、美智子について各金一〇万円ずつをもつて本件賠償責任と相当因果関係のある金員と認める。
一三むすび
以上のごとく控訴人らの本訴請求はそのうち、控訴人恭子に金七七〇万円、同仙三、美智子に各金一一〇万円及びこれら各金員のうち弁護士費用を除く各金員に対する控訴人らの本件訴状が被控訴人に送達された日の翌日であることが記録によつて明らかな昭和四九年三月二日から完済まで民法所定の年五分の割合の遅滞損害金の支払を命ずる限度で理由があり、その余は理由がないのでこれを棄却すべきところ、原判決はこれと異つているのでこれをその趣旨に変更し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第九二条本文第八九条第九三条第九六条を適用して主文のとおり判決する。なお仮執行の宣言はその必要なしと認めこれを付さない。
(菊地博 滝口功 川波利明)